「システム論的研究のすすめ」

京都大学 医学研究科 高次脳科学講座  金子武嗣

  日本の神経科学研究者の人口が増加の一途をたどり、かつ、近い将来も「脳の世紀」など神経科学研究の発展に疑いがないことはその一端をになうものとしてはまことに悦ばしい限りです。とは言うものの、現在の神経科学の隆盛が私達の最終ゴールである中枢神経系の理解にそのまま直結するかというと、そう楽観的でもいられない。いられない理由は現在の研究の流れ(流行)が本道から少しく外れているのではないかと感じるからです。したがって、ここでこれから「暴言」を吐かせていただくわけですが、この危機感故のこととご寛恕願えれば幸いです。

  さて、生命科学、その現在の中核である分子生物学はパワフルです。なぜパワフルかというと迷いがない。ワトソン・クリック以来、生命現象というのは物質間の特異的相互認識(結合・作用)のありようだ、あとはそれが具体的にどうなっているのか一個一個突き止めればよいのだという道筋がはっきりしていて迷いがない。戦さで言えば、圧倒的優勢の常勝将軍の戦いです。歩一歩、自陣を拡大していずれすべてを手に入れることでしょう。神経科学から見たらまことにうらやましい限りです。
  我々の神経科学は当然生命科学の一部に包含されるのだけれども、それ自身に固有な問題提起がある、あるいはあったはずです。生命科学のゴールである「生命現象の理解」に対して、我々のレゾンデートルは「精神現象の理解」でありましょう。この我々のゴールは日々の研究生活の中では少々口幅ったい事柄であり、現在の研究の実体からあまりに遠く離れているものですが、神経科学研究者の心の奥底には巣くっているはずです。
  このゴールからみると神経科学の現状はどうでしょうか。近年、分子生物学的手法の応用として分子神経生物学あるいは発生・発達神経生物学が隆盛になる一方で、ややもすると従来のシステム論的視点の研究が神経科学の分野、特に実験分野でなおざりにされつつあると感じられます。たしかに、分子神経生物学あるいは発生・発達神経生物学も神経系を対象にした科学ではありますが、それらの真正面に見えるゴールは機能分子の解析であったり、自己組織化の解明であったりするのであって、「精神現象の理解」ではなさそうです。ちょっと極端になりますが、ニューロンセオリーに立つならば、その入出力・シナプス可塑性等の性質を再現した例えばシリコンでできた素子を、実際の中枢神経系の配線のとおり結べば「精神現象」はそこに発現するはずです。ここに存在すべき作動原理は本質的にシステム論的であって、そのニューロンが実際何から出来ているかということあるいはどのように出来上がったかということには関係ない。では、なぜ我々実験科学者が生命科学の手法を使って脳を研究しているかというと、「精神現象」を実現し作動原理の秘密を蔵しているシステムは、CHNO原子からできたこの脳あるいは大脳皮質しか手元にないからです。

  また別方面から見ますと、高次脳機能の方面からトップダウンに為される研究が、例えば PET・Functional MRI・MEG ・記号心理学あるいは課題学習後の Unit potential recording 等、盛んになってきています。しかし、大脳皮質の機能を真に解明するためにはボトムアップの研究、すなわちその構成要素であるニューロンの種類と電気的・化学的性質を決定し、それらの連絡・結合の仕方を解析するといった研究も劣らず重要と思われます。あるいは、より重要であると主張したい。というのは、脳というシステムは現代制御理論で言う内部自由モードが極度に肥大化した組織であろうと考えられるからです。こうしたシステムの場合、外から観測可能でも制御可能でもないモードがほとんどを占めるわけですから、その内部状態空間全体をじかにのぞき込まない限り、システムの理論的研究に本質的制限がかかるでしょうし、その作動原理を本当には理解できないでしょう。そのためには最近の篠本滋さんの本のタイトルのように「脳のデザイン」をボトムアップに攻めることが重要です。脳の、とくに大脳皮質の回路のデザインを知らずに群盲象をなで続けていてはいただけません。
  理論的分野からせまることも原則的には可能でしょうが、その分野から聞こえてくることも「情報処理」以外のメカニズムにはなかなか聞こえない。情報処理というのは入力情報パターンのカテゴライゼーションですから、感覚入力から運動出力までを眺めたときその原理は、極論すれば、郵便番号の識別機械以上のことを説明していない。ですから私には「精神現象」を理解するための原理がなにかひとつ欠けているとしか思えない。現在の人工知能・計算論の工学的用語だけでは、(哲学的な用語は避けたいのですが)たとえば物理的パラメーターとしてのではない、我々みなが日々自覚している主観的・内的「時間」を説明できそうにない。何か足りないという強烈な感じがする。まるで、ダーウィン達が進化論を持ち出す前の博物学の中に我々はいるような感じです。そうなると、いつか誰か天才が我々の“進化論”を、すなわち「精神現象の原理」を持ち出してくれるまでは、私達は丹念にシステムの記述を博物学的に深めて行くしかない。来たるべき「精神現象の原理」にとって、重要といえるものはまさにそれを実現しているシステムがどのように構成され、どのような作動特性を持っているかということではないでしょうか。生物界が現世・化石を含めていかように構成され関連しているか、ダーウィン以前に丹念な記述があったように。

  そこで神経科学研究の現状を見ますと、残念ながら、ボトムアップのシステム論的研究がどちらかというとなおざりにされている。10〜20年前にシステム論的実験研究で元気のあった人たちが現状では他の分野の勢いに押されてくすぶっておりますし、若い実験研究者がこの分野にどうも集まってこない。ですから、誰かが吼えている必要がある。システム論的実験研究者は自分達の研究が大事だと声を大にすべきである。加えて、研究者はもっと貪欲に、システム論的研究のために分子生物学だろうが、カオス理論だろうが使えるものなら何でも取り込み、かつての元気をとりもどす努力をしなくてはいけない。研究のスタートの動機が「精神現象の理解」であった人たちは、現在と近い将来に予測される神経科学の隆盛をぜひ脳のシステム論的研究のものとするべく、新たな流れを作りだそうではありませんか。
(神経科学ニュース 1996・No.5、掲載)


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