中村さん:


高次脳形態学講座 金子先生

いきなりのメールにお返事をいただき恐縮しております。

ありがとうございました。

意識と時間の関係については、私も大変興味を覚えております。

正確には、意識そのものと時間そのもののそれぞれに興味があると申し上げた方が正確ですが。

先生の「視床・大脳皮質ループのシンプルなモデル」を拝読しました。

一度読んだだけですので、まだまだ全然消化できておりませんが大変面白く読ませていただきました。腑に落ちない点が二つほどあったので、この機会に質問させていただいてよろしいでしょうか。

21ページの3行目で増分がt、つまり物理時間となることを導いておられ、これはつまり内的時間(=意識の時間的発展)が物理時間と一致することを意味されているのだと思いますが、ここでいう物理時間とはニュートン流の絶対空間・絶対時間の時間のことでしょうか。

もしそうだとすると、私の理解では、特殊相対論以降、ニュートン流の絶対時間は意味を失っており、現在の物理学では(少なくとも時間を探求の対象とした理論物理学では)ミクロな世界では時間は存在せず、あえていうならばマクロな世界を記述するときに時間がたち現れるという見方がかなり有力ではないかと考えます。


t は物理的パラメータとしての時間と言っただけの意味です。さらに小論での時間 t はニュートン流の時間でも素粒子論の時間でもなく、離散時間です。もっと言えば、endomorphism の実行回数ですね。

また、t と <T> との関係は、モデルが単純なのでたまたま一致しますが、一般論としては向きが同一で単調ならば、一致する必要はありません。


したがって物理学での時間についてはどう取り扱っても小論には影響しないと思いますが、通常の相対論あるいは量子論の枠組みでも t はパラメータですね。

マクロな世界を記述するときにたち現れる時間というのは結局エントロピー演算子の双対としての時間のことでして、こちらでしたら神経ネットワークにたち現れる時間(実際には時間演算子)と同質のものだと思います。先の小論では、単純なモデル系でそれを導いてみせたということになります。


そうすると、数学的に記述された物理時間との一致ということがどの種のリアリティを持つかがうまくイメージできないのですが。

ミクロな世界では時間は存在しないというのは、たとえばポール・ディヴィスの言葉を借りれば

「時間は、粒子の位置と運動の軌跡が通常の量子力学のなかで消えてしまったのと同じ仕方で、量子的曖昧さのなかに蒸発してしまった。量子宇宙論は、時間を、神秘家の変性意識状態と同じように、確かに廃止してしまった。この理論の典型的な量子状態の中では時間は完全に無意味である」

といったあたりの意味です。ミクロな世界での時間に関するこの種の議論については、ホーキングやリー・スモーリンもほぼ同意見とみています。


この辺の哲学論争は、少なくとも意識現象や内的時間の議論としては的外れかなと思います。下記のペンローズの議論も含めて「外れ」な気がします。脳と心はマクロな現象なんだと思います。


二つ目の質問です。

先生の議論ですと、視床・大脳皮質ループが数学モデルで記述できる内的時間を持ちうるということが重要な帰結となっていると理解しましたが、たとえばベンジャミン・リベットの実験で示されているように、意識的な時間に対して、無意識的な精神プロセスが数百ミリ秒(300 msecくらいでしたか)先立つわけです。言い換えると、無意識的な精神プロセスが意識的な時間(もし意識的な時間が仮構でなく、神経回路の物理現象としての実体を持つならば)を生み出していると見ることができると思います。


先の小論でも実は、内的状態そのもの rho_t (x) に対しては時間演算子を定義できず、observer neuron f(x) があって始めて定義できるところを見て下さい。observe しなければ時間演算子は定義できないのです(理由は rho(x) に作用する Perron-Frobenius operator が unilateral adjoint shift になってしまうからです)。そうすると上記の議論がオーバーラップしてくるでしょう(見かけ上、符合してくるだけだとは思いますが...)。まあ、そう思いたければ、「無意識プロセス」を rho_t (x) = U^t rho_0 (x) として、「意識的な時間」演算子 T が作用できるところを V^t f(x) とできそうです。


無意識的な精神プロセスが何によって記述できるのかは別に考えるべき問題ですが、とりあえずはペンローズが「心の影」で展開した議論に寄りかかれば(彼は数学的直観は非アルゴリズム的であるとそこで述べていますが、それをあえて無意識まで敷衍して)、無意識的な精神プロセスはまだ明らかになっていない非アルゴリズム的なフレームワークで記述されることになるでしょう。こう考えていくと、非アルゴリズム的な(あるいは非算術的な)フレームワークから、さらに間接的に記述されるはずの意識的な時間が、算術的な数学モデルで記述できるという話にはどこかしらあいまいなままになっている部分があるように思えるのですが。


個人的な感想としては、この辺のペンローズ先生の考えは直感的な議論にすぎず、科学的な根拠はほとんどなさそうだと見ています。

われわれ東洋哲学の文化のもとで育ったものからすると、ぐずぐず直感的な議論を展開されるよりは

「お前の意識(心)なぞは存在しとらん!」

と喝破される方がいっそ心地が良いなと思います。

でも、地道な一脳科学研究者としてはその有るようで無いような在り方を記述できる(おそらくは数学的な)方法論が欲しいのです、と言っておきましょう。非算術的な数学をつかっても構いません。現状では確たる記述法が無い以上、我々の脳と心、あるいは意識と内的時間の記述が曖昧なままになっていることには完全に同意します。


ごく漠然とした感想になってしまい、いいコメントとはとてもいえませんがご容赦ください。

お時間のあるときにでもご教示いただければ誠に幸いです。

中村岳史拝


金子 拝。